補足・解説

本ページに記載のコメントは、東京女子医科大学附属足立医療センター平久美子先生による解説です。


 

 当時、プラスチックごみ処理施設Aから、プラスチックが細かく砕かれた摩耗粉が飛来したとあります。このような状態では、もっと細かい粒子状物質も一緒に飛来し、目の表面に付着したり、気道内に吸入されたりした可能性があります。圧縮により生成されたイソシアネートがプラスチック由来の粒子状物質にまざっていた可能性もあります。

 

 今後、新たににプラスチックごみ処理施設が建設されるとしたら、操業開始前にその排気の安全性を調べる際、VOCと同時に粒子状物質の発生を質と量について調べる必要があると思いました。

 

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 「退院後12日目に北里大学病院で、化学物質過敏症の専門医を受診しました。」とありますが、正確には、「神経眼科の専門医を受診しました。」です。当時の北里大学病院で化学物質過敏症を診ておられたのは、宮田幹夫教授(現そよ風クリニック院長)でした。宮田先生は、神経眼科学の世界的権威である故石川哲北里大学医学部教授とともに神経眼科学的検査により、様々な環境汚染物質の中毒や、シックハウス症候群、化学物質過敏症の診断しておられました。

 

 目は心の窓といいますが、実は脳の窓です。眼底検査における動脈硬化の度合いは、脳の動脈硬化と平行することがわかっていますし、脳を圧迫するものがあるかどうかもわかります。視野検査により網膜が正常に機能しているか、視神経の障害がどこにあるのかわかります。専用の機械を使って瞳の光刺激に対する反応や目の動きを調べると、脳神経(脳から出る神経)の機能と、脳の機能がわかります。著者は、化学物質が具体的にどのように神経機能に影響を与えているのか調べるため、受診されたのです。

 

 ちなみに、化学物質過敏症は、化学物質の健康影響の一病態であるという考え方が主流になってきています。かつて中毒であれば量反応関係があるはず、アレルギーであれば抗体または反応する細胞がみつかるはず、と考えられ、それに当てはまらない化学物質過敏症はよくわからないものとみなされていました。しかし、脳脊髄液減少などの中枢神経の物理的要因により量反応関係は変化すること、最近発見された免疫細胞である自然リンパ球や制御性T細胞の機能不全が多くの疾患と関連していることが知られるようになるにつれ、病態への理解が進んでいます。化学物質過敏症の原因となる化学物質は、農薬や殺虫剤、有機溶剤などの神経毒、柔軟剤や香料、塩素系溶液など多岐にわたりますが、発症早期に原因物質から隔離すること、発症の背景となる悪化要因を診断し治療することで、重症化を防ぎ、治癒を促すこともできるようになってきています。いったん発症すれば治らない病気とは言えなくなってきています。

 

 著者が示した検査結果は、視覚系コントラスト感度検査(Visual Contrast Sensitivity Function Test)と呼ばれるものです。同じ大きさの字でも色が薄くなると読みにくくなります。その度合いを調べるための検査です。

 

 グラフの横軸は視標の空間周波数、縦軸はコントラスト感度です。

 

 異なる太さの、白い部分と黒い部分がグラデュエーションになっている縦縞(空間周波数0.5, 1,2,4,8,16 cycle per degree(cpd)と表現します。cpdが大きいほど細かい縞です。)を患者さんに見てもらい、縞の黒い部分をだんだん薄くして(コントラストを変化させ)、どのくらいの薄さ(コントラスト)まで、縞として認識できるかを調べます。

 

 白地に真っ黒な文字のコントラストが1で、コントラスト感度は、コントラストの逆数です。薄い字でもみえるほど、コントラスト感度は高い値となります。グラフの斜線の領域が正常範囲です。

 

 この検査で、患者は平成8年7月16日には、少しでも字が薄いと判別できない、細かいのだけでなく太いのもだめ、という状態であったことがわかります。

 

 このような視力低下が起きる環境化学物質は多岐にわたります。中毒学の教科書(Casarett & Doull’s Toxicology, seventh edition)には、網膜から視神経、視神経中枢に影響をおよぼすものとして、無機鉛、VOC(ノルマルヘキサン、パークロロエチレン、スチレン、トルエン、トリクロロエチレン、キシレン、その他混合物)、有機リン、アクリルアミド、二硫化炭素、メチル水銀の記載がありますが、それ以外のものである可能性もあります。大規模な環境暴露事故や、職業暴露による労災事例があれば、症例報告として記録に残りますが、それ以外の中毒で、報告されていないものも多数あります。

 

 幸い著者の視覚系コントラスト感度は、転地後2年半たった平成11年3月2日には、正常範囲に戻っています。他の神経眼科学的検査の結果が示されていないので、はっきりしたことはいえませんが、視覚系コントラスト感度については、可逆的な影響であったことになります。

 

 網膜や神経に障害を起こす物質の影響は、短期間であれば可逆的でも、長時間にわたると不可逆的になることがありますし、小さいこどもや胎児は、大人に比べてより低濃度で被害を受けやすいと言われています。被害を受けて、とりあえず着の身着のまま逃げるという決断をした著者は正しいですが、そうできなかった住民もいるかもしれないと思うと心配です。

 

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 著者は、健康被害の原因の一部がイソシアネートではないかと述べておられます。

 

 通常、アレルギーを起こす原因物質である抗原はタンパク質(花粉、チリダニなど)ですが、タンパク質でない低分子でも抗原として作用するものがあり、ハプテンと呼んでいます。イソシアネートはハプテンのひとつです。

 

 イソシアネートはアレルギーの原因となる物質で、血液検査をすると、イソシアネート特異的IgE抗体または、イソシアネート特異的IgG抗体が検出されることがあります。一度イソシアネートに対する抗体が免疫細胞により生体内で作られるようになると、その免疫細胞がリンパ節で長期間生存するため、数年経ってもイソシアネートに接触するたびに抗体が反応し、皮膚炎や目の症状、場合によっては喘息発作や過敏性肺炎が起きることがあります。

 

 ホルムアルデヒドもイソシアネートと同じく、ハプテンとなりうる物質で、特異的IgE抗体が生体内で作られるようになることがあり、血液検査で検出することができます。

 

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